北の炎 太田寛一

 士幌町農協の歴史は、農民の農外資本や市場経済競争に対する徹底した戦いの歴史である。

 「農民を疲弊と貧困から救う道は、農民自らの手によって農産物の加工と流通を行い、付加価値を高めること」を真髄とし士幌町農協は昭和初期に農村工業の道に踏み出した。明治31年に岐阜県美濃から入植した開拓団は、人跡未踏の巨木生い茂る荒廃した大地を切り開き豊かな大地に変えた。そこで収穫された良質の農畜産物を農民工場で更に付加価値を高め、その製品が生み出した利益は農民に還元し共有してきた。今日では、国内でも有数の「豊かな農協」(注1)と評されているが、その所以となっている。

努力

 士幌町農協の食品加工業の黎明期を創造したのが、太田寛一氏である。太田氏は大正4年10月現在の帯広市川西地区で生まれた。大工棟梁の家に生まれたが生活は苦しかった。学業の成績は極めて優秀でクラスでも首席の成績で学校からは進学を勧められたが、家庭の事情で断念せざるを得なかった。小学校高等科卒業後農業を営んだが、後に地元の産業組合(注2)に奉職し生計を助けた。「一人は万人のために、万人は一人のために」資本主義の中では、一人一人の力は弱いが個々が集まり団結すれば大きな力になる。そういう協同組合の精神に魅了されていった。その後奇遇も重なり、22歳の時に士幌の産業組合に勤める事になる。

 戦中戦後と産業組合が農業会、農業協同組合と組織体が代っていく中で、太田氏の発案により村内(現在は町制施行)の民間の澱粉工場を買収した。大きな苦労の末の買収であったがこれが士幌町農協が農畜産物の加工分野に進出する始まりであった。その工場を運営する事により、いかにこれまでの澱粉工場主が原料である馬鈴薯を農民から買い叩いていた事がわかったのである。農協の澱粉工場は大きな利益を生み、そのほとんどを農家組合員に還元し翌年からは馬鈴薯の買い取り価格を上げた。そのため他の工場は原料が集まらなくなり次々と倒産していったが、農協はそれを買収し規模を拡大していった。伴い農家経済も潤っていった。

書「努力」 若い頃の写真

終始一貫

 農協の組合長就任後には、東洋一と謂われた「合理化澱粉工場」の建設を推進し昭和33年に完成した。当時500万円でモデル的な工場が建設できる時代に1億2,000万円の工場である事から規模の大きさが窺える。大量生産が可能になった事から、士幌町の他、音更町、鹿追町、上士幌町の4町(5農協)から馬鈴薯を受け入れ製造するようになり、現在では更に同じ十勝管内である芽室町・清水町・新得町からも受け入れている。

 太田氏のターゲットは酪農業(牛乳製造)にも及び、酪農家が生産した生乳を農協に集めて、有利に売る事を目的にした『一元集荷多元販売』の魁となった。士幌町農協を含む8農協が「北海道農協乳業(現在のよつ葉乳業)」の設立を図った時は、既存乳業メーカー側についた農林省との間で息詰るような折衝が重ねられたが、農協主体、農民資本の乳業会社が誕生した。

 農協はその後も士幌の主農産物である馬鈴薯において澱粉に続く加工製品に着手し、国民の生活、嗜好の変化を見逃すことなく、ポテトチップスなどの菓子、コロッケ・ポテトサラダなどの惣菜などの製造を手掛け、今や日本一の飼養頭数を誇る町内で生産された肉牛(牛肉)の加工施設を運営するに至っている。

書「終始一貫」

和

 冒頭のタイトルの「北の炎」は士幌町農協の庭園にある太田氏の銅像の傍らの顕彰碑の[顕彰の辞]の一節による。また島一春氏の著作『北の炎-太田寛一-』(家の光協会、1983年)のタイトルにもなっている。

 太田氏の溢れるほどの情熱と人の心を動かす説得力。「二人羽織」の如く共に事業を推進してきた安村志朗氏(士幌町農協参事・専務・組合長・会長を歴任、当時若干22歳の安村氏が澱粉工場の買収を大きく牽引した)の冷徹なまでの経営力が強力に融合しその相乗効果が今日の士幌農業の繁栄をもたらした。[顕彰の辞]で安村氏は後世にこう伝えている。


画像をクリックして詳細へ
書「和」

精だせば こをるまもなし 水車

 太田氏の理念は「農民が作った良質の農産物の価値を上げる」という明快なものである。

 「生産から加工・消流まで」をモットーにしそれを実現してきた士幌町農協は、現在国が提唱する第6次産業化を昭和初期から実践してきた。

 「太田イズム」とも謂われる、この精神であり道しるべは農協史上に大きな足跡を残すとともに基盤である士幌町農協の農家組合員・役職員に今もしっかりと息付いている。


昭和57年組合長勇退


士幌高原に建立された像

(注1) 立花隆氏『農協-巨大な挑戦-』(朝日新聞社出版局、1980年)11ページ
(注2) 現在の農協の前身。その後農業会と組成される。
(注3) 太田氏が好んだ句。「精出せば 凍る間も無し 水車(みずぐるま)」
買収当時の澱粉工場は河川を利用した水車を動力源とした。厳寒時でも水が絶えず流れれば川は凍る事もなくそして水車が廻れば工場は稼働し澱粉は製造できる事を題材にしながらも「精出せば」を「懸命に働く」と言い換え、農民・役職員には懸命に働いて欲しい。ならば結果はおのずからついてくるものだ、と解釈したい。
     
  • しほろ牛肉
  • 職員採用情報
  • 北斗運輸株式会社
  • 気象情報組合員以外の方はこちら
  • 農協記念館
  • じろう食堂
  • 今月の広報誌ユートピアしほろ
  • 味の素KK 士幌ポテト サラダシリーズ
  • じゃがい問題研究所
  • わかもろこし公式ホームページ
  • 組合員・利用者本位の業務運営に関する取組方針
  • JAグループ北海道
  • e農net
  • あぐり王国北海道NEXT
  • アグリポートWeb ホクレンの営農情報
  • みんなのよい食プロジェクト
  • 国生国産
  • 士幌町農業担い手支援協議会